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感動の猫小説|第2話 少女との出会いで変わった世界と野良猫の心

小説『ずっと待ってた猫』
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ずっと待ってた猫 ~ 少女との出会いで自分の存在に気づき、最後の約束を交わす物語 ~

少女と出会った翌朝――目が覚めると同時に、私はいつものダンボールの中から飛び出していた。気づけば、路地裏を抜け、少女の姿を求めて通りまで出ていた。

『外の世界って、こんなに広かったんだ……』

いつも見ていたはずの街並みが、まるで別の場所のように感じられる。道ゆく人々の足音さえ、昨日までの私なら気にも留めなかったのに、今日はどこか意味を帯びて耳に届く。

あの少女が、また現れてくれるかもしれない。また私を見つけて、「ニーナ」と呼んでくれるかもしれない。

――もしかしたら、私はもう「ただの猫」ではなくなったのかもしれない。

そんな小さな希望が、胸の奥でそっと灯ち、そのぬくもりが、私の足を自然と前へと運ばせていた。

しかし、なかなか、少女は現れなかった。

今日は朝から、いったいどれくらい歩き回ったのだろう。こんなにも長く、遠くへ歩いたことは、今まで一度もなかったかもしれない。

空はすでに夕暮れに染まりはじめ、ひんやりとした風が肌をかすめる。私は立ち止まり、心の中でつぶやいた。

『……やっぱり、今日は来ないのかな』

そのときだった。

「ニーナーーーっ!」

路地裏に響いた声に、私ははっと顔を上げる。振り向いた先に、あの少女がいた。

「遅くなって、ごめんね。……よかった、また会えた」

少女は小さく息を切らしながらも、私の目の前に立っていた。笑顔は、昨日と同じ――いや、それ以上にやさしく、あたたかかった。

それからというもの、少女は毎日のように夕方になると、必ず私に会いにこの路地裏へやって来るようになった。冷たい風が通り抜けるこの裏通りは、かつてはただの寒くて寂しい場所だったけれど、今では私と彼女が時間を分け合う、静かであたたかな場所へと変わっていった。

彼女の存在は、いつしか私の生きる支えになっていた。その声、その仕草、そしてふと風にのって届く香りさえも、どこか懐かしく、胸の奥を優しくくすぐる。まるで、遠い昔に出会ったことがあるかのように――私の記憶の深い場所で、彼女のぬくもりが静かに響いていた。

「ニーナ、今日もちゃんと待っててくれたんだね」

制服のまま、小さな紙袋を片手に笑いかける少女は、出会った日のままの澄んだ声で、変わらず私の名前を呼んでくれる。彼女はいつも、私の少し離れた場所に腰を下ろし、話し始める。

「今日はね、英語の小テストがあったんだ。たぶん満点は無理だけど、けっこう書けたかも」

私が瞬きひとつせずじっと見つめていると、彼女はくすりと笑って、紙袋の中からパンの耳を取り出す。

「これ、うちの朝ごはんの残り。好きかな? 食べる?」

私はすぐには動かず、少しだけ鼻先をぴくりとさせる。それでも彼女は焦らず、ただそのまま手を差し出している。

寒い日には、小さな使い捨てカイロを私の足元にそっと置いてくれる。「今日はすごく冷えるから、少しでもあったかくなるといいな」彼女の手のぬくもりが、カイロの熱よりもずっと心に残る。

雨の日には、傘を差し出してくれる。「わたしはちょっと濡れても平気。でもニーナが風邪ひいちゃったら困るもん」そう言いながら、自分の肩がびしょ濡れになっているのに、気にもとめない。

ある日、彼女が笑いながらこんなことを言った。

「実はね、誰にもまだニーナのこと言ってないの。だって、自分だけの秘密みたいで、なんだかもったいないでしょ」

私はそのとき、初めてしっぽをゆっくり揺らした。彼女の言葉が、心のどこかあたたかいところに触れた気がした。

少女と過ごす毎日は、ほんの少しずつだけれど、確かに私の中の何かを変えていった。静かだったこの路地裏に、彼女の笑い声が混ざるたび、世界がやわらかく色づいていくようだった。

少女との時間を重ねていくうちに、私は少しずつ彼女の存在を「安心」として受け入れ始めていた。夕方になれば彼女は来る。そっと腰を下ろし、私に話しかけ、何も求めずに、ただ傍にいてくれる。それがどれほど特別なことなのかを、私は本能で感じていた。

けれど、それでも私は――やはり人間が怖かった。

私は野良猫だ。冷たい雨の夜を、誰にも気づかれずにやり過ごしてきた。踏まれそうになったことも、追い払われたことも、石を投げられたこともある。それが人間との「関係」だった。

だから、知らない手には決して近づかない。声が大きいだけで、体が一瞬こわばる。無理に触れようとされると、反射的に逃げ出してしまう。それが染みついた生き方だった。

実は、少女にさえ、私はいまだ撫でさせたことがなかった。彼女は決して無理に触ろうとはしない。私との距離を、私以上に大切にしてくれる。

そんなある日――

少女が初めて、私の前でいつもの笑顔を見せなかった。

「今日さ……ちょっと、辛くて……」

彼女はうつむき、小さくかすれた声で言った。

「ニーナは、ずっとひとりで寂しかったはずだから……あなたの前では笑っていたいって、ずっと思ってたの。でも、今日は……ちょっと無理みたい……ごめんね……」

その言葉が、なぜだか胸に深くしみ込んできた。私は彼女の言葉の意味をすべて理解できたわけじゃない。けれど、彼女がいま、本当にひとりで泣きたくなるような思いを抱えていることだけは分かった。

その瞬間、私の身体は自然と動いていた。気づけば、私は彼女の足元にぴたりと寄り添っていた。

誰かに自分から近づくなんて、これまでの私には考えられないことだった。それでも、そのときの私は、そうしたかったのだ。

少女は驚いたように目を見開き、そしてそっと手を伸ばした。その手が、私の背を撫でた。細くて、温かくて、少し震えていた。けれど、その手のひらには、私を傷つけようとする気配は微塵もなかった。ただ、つながりを求める気持ちだけが、確かに伝わってきた。

彼女に撫でられたのは初めてのはずなのに、なぜか初めてという感じがしなかった。私はただそっと目を閉じた。彼女の手のぬくもりが、深く、深く、心の奥まで届いていた。その瞬間、私の中で何かがふっと溶けたような気がした。

彼女に身体を撫でられてから、もう一カ月以上が経っていた。今では触れられることが心地よく、彼女が来ると私は迷わずその手の中に身を預けた。一緒に過ごす時間が長くなるにつれて、私たちのあいだには、言葉では表せない“なにか”が芽生えていた。

ある日、彼女は制服のポケットから、小さな鈴のついた首輪を取り出した。

「つけなくてもいいよ。ただ、ニーナが私の大切な子って、ちゃんと形にしたくて」

私はそっと顔を寄せ、鈴に鼻先を当てた。その小さな金属のかけらが、不思議とあたたかく感じられた。彼女の匂いがうっすらと染みついていたからだろう。

すると、彼女は少し笑って、ぽつりとつぶやいた。

「……ほんとはさ、だれかにこんなに優しくしたことなんて、あんまりなかったんだ。でも、ニーナに出会ってから、自分でもちょっと変わった気がする。……変わりたいって、思ったのかもしれない。優香って、そんな子じゃなかったのにね。いつか、ちゃんとまっとうに生きたいなって思うんだ。」

私はその声の調子に、どこか違和感を覚えた。ふと彼女を見上げると、彼女は遠くを見つめるようにしていて、その目の奥になにか言葉にできない想いが揺れていた。

優香――。

それが彼女の名前だった。その響きは、やさしくて、少しだけ寂しげで、どこか懐かしさを感じた。

優香という名前を初めて知った夜、私はなかなか眠ることができなかった。それは喜びからくる高揚とは少し違っていて、胸の奥に淡く残る霧のような、拭いきれないモヤモヤとした思いに包まれていた。

――優香。

その名前に、なぜだか心がひっかかる。耳にした瞬間から、胸の奥のなにかが、そっと揺れた。

知らないはずの名前。けれど、どこか懐かしい。まるで、遠い昔に一度だけ出会ったことがあるかのような……そんな、根拠のない確信。

パタパタと響く、軽やかでリズムのある足音。ふと見上げたときの、あの穏やかな瞳。やさしく語りかける声と、風に乗って届いた柔らかな香り。そして、あのとき私の背をそっと撫でた、あたたかな手のぬくもり――

それらすべてが、はっきりとは思い出せないけれど、確かにどこかで感じたことがある――そんな輪郭のぼやけた記憶と、静かに重なっていく気がした。でも、そんなはずはない。野良猫の私に、そんな過去があるだなんて……本当は、思い込みにすぎないのかもしれない。

それでもその夜の私は、静かに空を見上げながら、かすかに揺れる記憶の断片と私の前に確かに存在している優香を、何度も心の中で重ねていた。


【第3話 予告】

優香とニーナ――ふたりの出会いは、果たしてただの偶然だったのか。それとも、過去から続く小さな約束のようなものだったのか…。

かすかに胸の奥で揺れる記憶のかけら。それが誰なのか、何だったのか――ニーナにとって、それを突き止めることは今はまだ重要ではなかった。それよりもずっと大切なのは、目の前にいる優香と過ごす、あたたかくて静かな日々だった。

真夏のある午後。ニーナの身体に異変が起こり、優香は走り出す。そして、動物病院の静かな一室で、彼女の口からこぼれた“ひとつの真実”。

交錯するふたりの想い。触れてはいけない真実とは。

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