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感動の猫小説|第4話 失われた記憶のかけら|高台の公園でつながる野良猫と高校生の過去と今

小説『ずっと待ってた猫』
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あの真夏、命の危険を感じたあの日から、季節は静かに巡っていった。今ではすっかり体調も回復し、私はいつもの路地裏の暮らしに戻っている。あの灼けるようなアスファルトの熱も、今では遠い記憶の中。

けれど――ふと、風が通り抜けるたびに思い出す。あの日の優香の声、震える手、そして、命の重み。

優香が言っていた「家の事情」という言葉――その奥にある、彼女がひとりで抱えている何か大きなものの気配だけが、心のどこかに引っかかっていた。

あんなにも私のことを想い、支えてくれる優香。それなのに私は、ただ見つめることしかできない。優香の力になりたいと願うのに、何ひとつ、してあげられることが見つからない――そんな自分が、少し悔しくて、少し切なかった。

あの日を境に、優香は変わらず――いや、それまで以上に私の前では笑顔を見せるようになった。けれどその笑顔は、どこか心の奥までは届いていないように思えた。

そんなある日。

いつもと同じような夕暮れの光の中、優香がふとしゃがみ込んで私を見つめた。

「ニーナ、今日は一緒にお出かけできないかな?」

そう言って、彼女がそっと差し出したのは、小さなキャリーケースだった。人間の手で作られた箱。狭くて、少し硬そう。

「ちょっと窮屈かもしれないし、安っぽい作りでごめんね。でもね、どうしても連れて行きたい場所があるの。」

優香の声は、いつもやさしくて、どこか切ない。その声が、私の心の奥に、ふわりと降りてくる。

「暗い路地裏だけが、あなたの世界じゃないって知ってほしいの。私も昔は、心の中がずっと暗がりだった。でも――あなたがそばにいてくれるだけで、世界はやさしくて、あたたかくなったの。」

私は何も言えない。ただ、じっと彼女を見つめるだけ。それでも、彼女の言葉のひとつひとつが、胸の奥をやさしく撫でていった。

……路地裏。冷たくて、静かで、誰かの足音も怖かった場所。私にとって、そこは生きるだけの場所だった。けれど、優香が現れて、名前を呼んでくれるようになってから、その場所は少しずつ変わった。優香の声、優香の匂い、優香のぬくもり。それが染みこんで、今では路地裏は、私の大切な居場所になった。

その気持ち、優香に伝わることはないかもしれない。でも、私は本当に感謝している。あなたがいたから、私はもう「ただの猫」じゃなくなった。

『……優香が私を連れて行きたい場所って、どんなところなんだろう?見たことのない世界は、やっぱり少し怖い。でも――優香と一緒なら、ほんの少しだけ、踏み出せる気がする。』

「やっぱり、怖いよね? キャリーケースなんて入ったことないよね? でも大丈夫。私のこと、信じて。」

優香の声は、春の風みたいにやさしくて、私の耳にすっと溶け込んできた。ほんの一瞬、ためらいが胸をよぎったけれど、その迷いはすぐに優香の言葉に溶かされていった。優香が言うなら、大丈夫。

おそるおそる足を踏み入れたキャリーケースの中には、優香が昨日巻いていた薄手のストールがそっと敷かれていた。やわらかくて、ほんのりと優香の香りがして――私を安心させようとしてくれてるんだなって、すぐにわかった。

「ニーナ……ありがとう。自転車で30分くらいかな。少し遠いけど、がんばって我慢しててね。」

見たことのない世界へ向かう不安は、もうどこかへ消えていた。キャリーケースごと、自転車の荷台にしっかりと固定されて――ゴトン、ゴトンと揺れるたびに、私はふわりと宙に浮かぶような気分になった。

どれくらい揺られていただろう。心地よい振動と、そばに感じる優香の気配に包まれて、私はただ身をまかせていた。そして、ふと気づくと――自転車がゆっくりと止まり、静けさが戻ってきた。

「ニーナ、着いたよ。頑張ったね!」

優香の声が、ほんの少しだけ弾んで聞こえた。キャリーケースの扉が静かに開き、やわらかな手が私の体をそっと抱き上げてくれる。

その瞬間――目の前に広がる景色に、私は息をのんだ。

そこは、少し高台にある小さな公園だった。夕暮れの風がやさしく吹き抜け、街全体をそっと包み込むような、あたたかな光が広がっていた。茜色に染まった空は、少しずつ群青へと変わりはじめ、遠くの街では、一つ、また一つと灯りがともり始めていた。

「ここね、私、よくひとりで空を見てたんだ。」

優香がぽつりとつぶやいたその声には、懐かしさとやさしさが滲んでいた。

私はその横顔を見つめながら、ふと思った。この世界は、こんなにも広くて、こんなにもやさしい色でできていたんだ――胸の奥が、ふわりとあたたかくなる。それはきっと、風や光や景色のせいじゃない。優香が、私にこの場所を見せてくれたからだ。

……でも。私はこの場所に来たのは、実は“初めて”ではない気がした。いや、気がしたのではなく――確かに、私はこの景色を知っている。この空、この風、この光。胸の奥に、はっきりと焼きついている記憶がある。

たぶん、私にとっていちばん大切な人と――優香と、一緒に。そう思った瞬間、胸の奥で何かがふわりとほどけるように、記憶の扉がそっと開いた。

……まだ、私がほんの子猫だったころ。寒さを避けて迷い込んだ路地裏で、私は声をかけられた。

「だいじょうぶ? 迷子なの?」

その声は、今の優香よりも幼く小学生の頃のもののように聞こえた。けれど不思議なことに、その響きには変わらぬやわらかさが宿っていた。しゃがみ込んだ彼女の手には、小さな手提げ袋。そこから、丁寧に包まれたクッキーがそっと取り出された。

ほんのり甘い香りがふわっと広がる。私は、それを拒む理由なんて知らなかった。ただ、差し出されたそのぬくもりに、自然と体が引き寄せられていた。

その日を境に、彼女はときどき私のもとを訪れ、一緒に過ごす時間が少しずつ増えていった。

はじめはただ、不思議な子だと思っていた。どうしてこんなに寒い路地裏に、毎日のようにやって来るのか。どうして私なんかに、こんなにもやさしくしてくれるのか。それが分からなくて、少し距離を取っていた時期もあったが、それでも彼女は、何も押しつけてこなかった。ただそっと、そばにいてくれた。

気づけば私は、彼女の足音を待つようになっていた。朝の冷たい風の中でも、夕暮れの人通りのない道でも、その音が近づくたび、胸がふわりとあたたかくなるのを感じた。

そんな彼女が一度だけ連れてきてくれたのが、この公園だった。高台にあるベンチにふたり並んで腰を下ろし、静かに空を見上げていた。

「ねえ、見て。あの雲、お魚に見えるよね?きっと、ニーナも飛べたら、あの雲まで行けるよ。」

……そう。あのときも、名前を呼ばれていた。

「ニーナ」――そう呼んでくれていたのは、あの女の子。

空の色も、風のにおいも、夕陽のあたたかさも——すべてが、あの頃と何ひとつ変わらず、今と同じだった。けれどどうして、あの子と離れ離れになったのか。その理由だけは、まだぼんやりと霞んだままだ。

それでも今、こうして再びこの場所で、同じ空を見上げている。名前を呼ぶ声も、そばにあるぬくもりも、あのときのまま、変わらずに。私はそっと目を閉じた。胸の奥に眠っていたあの日の記憶が、静かに、けれど確かに——今の私の中に、やさしく重なっていく。

「ニーナ……」

優香がぽつりと私の名前を呼んだ。その声は、夕暮れの風にまぎれるように小さかった。

「私ね、小学生の頃に——ほんの少しの間だけど、一匹の子猫と暮らしてたことがあるの。……その子、いつも私のことをじっと見つめてた。まるで、私のすべてを知ってるみたいな目で。」

私は、そっと耳を傾ける。優香の声には、遠くを見つめるような懐かしさが混ざっていた。

「でも……ある日、突然いなくなっちゃったんだ。どれだけ探しても見つからなくて……理由はわからない。けど、多分、私のせい……。ずっと、自分を責めてた。私と一緒にいることが、あの子にとって幸せなことじゃなかったんじゃないかって……」

優香の声が、ほんの少しだけ揺れていた。その手もかすかに震えているのが、私にはわかった。私はそっと、その手に頭をすり寄せた。

優香が小さく息をのんだ。

「ねえ、ニーナ……こんなこと言ったら変に思うかもしれないけど、あなたの目、あの子にどこか似てるの。こうしてそっと触れているときも、言葉を交わしているときも……まるで、前にもこんなふうにしていたような気がするの。」

私の胸にも、そっと小さな波紋が広がっていく。優香の声、体温、そしてほのかなにおい――それらすべてに、“知っている”という感覚が宿っていた。

優香……その猫は、きっと私だよ。言葉では伝えられないけれど、この想いがどうか届いてほしい。それでも私は、声にならない言葉で、優香に伝えたくなる。――私も、あなたをずっと探していたのかもしれない。

ふたりのあいだに、静かな沈黙が落ちた。けれどそれは、決して苦しいものではなかった。それはまるで、遠い過去の記憶が、少しずつ輪郭を取り戻していくような……そんなやさしい時間だった。

見上げた空には、星がもう三つ、四つと、ひっそり瞬きはじめていた。

優香との過去のつながりは、たしかにあった。それはもう、迷いようのないほどに、私の心に深く響いていた。

きっとこれから――私たちは、もっと強く、もっと深く結ばれていく。そう信じて、疑うことすらなかった。理由は思い出せない。けれど、あの日失われた時間を、ようやく取り戻せるような気がしていた。

けれど。

運命は、その想いをあざ笑うかのように、何の前触れもなく、私たちの前に冷たい影を落とした。その時はまだ、私は気づいていなかった。この静かな幸福のあとに、二人を引き裂く大きな出来事が待ち受けていることに――


【第5話 予告】

――やっとつながったと思ったのに。運命は、容赦なくすべてを奪っていった。

私たちは、きっと昔どこかで出会っていた。断片的な記憶が、少しずつ胸の奥に響きはじめていた。
ふたりの距離は、ゆっくり、でも確かに縮まっていた。

なのに…

二人を引き裂く大きな出来事とは…!?

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