ー3カ月後ー
季節は少しずつ移り変わり、あのときの冷たい雨は、今ではどこか遠い記憶のなかに霞んでいるはずなのに、私はまだそこに立ち止まっていた。
優香がもう戻ってこないこと。それは、頭ではちゃんと理解している。あの夜に起きたこと、優香が選んだ道、もう私の前に現れることはないという現実。何度も何度も、自分に言い聞かせた。
けれど、心のどこかではまだ信じられなかった。
今、私のそばにあるのは——優香がプレゼントしてくれた首輪だけ。小さくて、あたたかくて、優香のぬくもりがまだそこに残っているような気がする、大切な首輪。
「ニーナが私の大切な子って、ちゃんと形にしたくて」
そう言って、少し照れながら私の首にそっとつけてくれたあの日の記憶は、ずっと色あせることなく胸の奥にしまっていた。
けれど、今日……その首輪が、不意にぷつりと音を立てて切れてしまった。まるで何かの区切りを告げるかのように。
私は驚いて、足元に落ちたそれをじっと見つめた。そして次の瞬間、封じられていた過去の記憶が一気にあふれ出した。すべてが、鮮やかに、まるで昨日のことのようによみがえってきた。

……それは、まだ私がほんの小さな子猫だったころ。凍えるような風が吹きすさぶある冬の日、私は寒さをしのぐ場所を探して、人気のない路地裏に迷い込んでいた。薄暗い路地の片隅で、体を丸め、震えながらじっと時が過ぎるのを待っていたあのとき——
「だいじょうぶ? 迷子なの?」
優しく、でもどこかおそるおそるかけられた声。顔を上げると、そこにはランドセルを背負った女の子が立っていた。それが——優香だった。
その日を境に、優香はときどき私のもとへやってくるようになった。最初は、信じきれずに少し距離を取っていた私。でも優香は、決して私に何かを無理強いすることはなかった。餌を押しつけることも、無理に触れようとすることもなく、ただ静かに、穏やかに、私のそばに座ってくれていた。
そのぬくもりが、しだいに私の心をほどいていき、彼女の存在が、私にとって安心であり、希望であり、世界でたったひとつの拠りどころになっていったのだ。
そして気がつけば、私たちはお互いにとってかけがえのない存在になっていたのだと思う。言葉は通じなくても、たしかに心はつながっていた。寒い路地裏で出会ったあの日から、ずっと——。
ある日、小学生だった優香が、ぽつりと私に語りかけてくれた。それは、夕暮れの光が柔らかく差し込む、静かな時間だった。
「私ね、小さい頃、お母さんが病気で死んじゃったの」
優香の声は少し震えていたけれど、どこか穏やかでもあった。
「お母さんは、とてもやさしくて、私は本当に大好きだったんだ。お母さん、私のことを“ニーナ”って呼んでたの。イタリア語で“小さな女の子”って意味なんだって」
そう言って、優香は私のほうを見て、そっと微笑んだ。
「…あなたのこと、“ニーナ”って呼んでいいかな?ずっと、名前をつけてあげたいって思ってたんだ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がぽっとあたたかくなった気がした。『ニーナ』——それが、私の名前。誰かに名前をつけてもらうということが、こんなにも嬉しくて、こんなにも特別なことだなんて、私はそのとき初めて知ったのだった。
それからというもの、私は「ニーナ」と呼ばれるたびに、心のどこかがあたたかくなるのを感じていた。優香の声はいつもやさしくて、どんなに寒い日でも、その呼びかけだけで心がぬくもっていくようだった。
ある日、彼女が私の前にしゃがみこんで、そっと顔を近づけた。
「ニーナ……ありがとう。私、ひとりじゃないんだって思えるの。ニーナがいてくれてよかった」
その言葉を聞いたとき、私は小さく喉を鳴らした。言葉では伝えられないけれど、私も、同じ気持ちだったから。
そうして私たちは、言葉を持たないけれど確かに通じ合える、静かで、あたたかい関係を少しずつ育んでいったのだった。あの路地裏での出会いが、私にとっての運命のはじまりだったのだと、今ならはっきりと言える。
毎日のように会いに来てくれる優香と、そばで寄り添う私。名前をもらい、居場所をもらい、そして——心をもらった。私は、彼女の小さな世界の一部になれたことが、何よりうれしかった。

けれど、ある日を境に、優香の表情が少しずつ変わりはじめた。笑っていても、その笑顔の奥にどこか遠くを見ているような、そんな影が見えるようになった。
「……お父さん、最近ちょっと怒りっぽくてさ」
ある日ぽつりとつぶやいたその言葉に、私は耳を立てた。
以前は、たまに話していたお父さんの話が、だんだんと少なくなっていった。それでも優香は、私の前では明るく振る舞おうとしていた。学校帰りに会いに来ては、小さな袋からお菓子やパンの切れ端を分けてくれて、「ニーナ、今日はね、図工で花を描いたの」と、楽しそうに話してくれた。
けれど、彼女の手には小さな擦り傷が増えていった。声にも少しずつ、力がなくなっていった。
ある日、彼女は私の目の前で、ふと涙を浮かべていた。服の袖で、何度もそっと目元をぬぐっている。私は音も立てずに歩み寄り、そっと彼女の膝の上に身を預けた。
「……ニーナ、ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
その声が震えていたことを、私は忘れない。

そんなある日、優香が私を連れて行ってくれたのが、町のはずれにある高台の公園だった。夕暮れが空を淡く染めていて、風は少し冷たかったけれど、そこから見える景色はとても広くて、遠くまで街の光が瞬いていた。
ベンチに腰を下ろし、私を膝の上に乗せながら、優香はぽつりと話し始めた。
「ニーナ、いつもあんな暗い路地でひとりで過ごすの……寂しいよね?」
彼女の声には、どこか自分自身に問いかけるような響きがあった。
「……私もね、家にいても、なんだか独りぼっちみたいな気がするの。お父さん、最近ずっとおっかないから……」
風が少し強く吹いて、彼女の髪がふわりと揺れた。
「ねえ、ニーナ……こっそりうちに連れて帰って、一緒に暮らさない? 外の物置だったら、お父さんにはバレないと思うんだ。クッションとか毛布も置いて、あったかい場所にするから……ね?」
その目は真剣で、どこか切実だった。私は言葉で応えることもできなかったけれど、ただ静かに彼女の手のぬくもりを感じながら、小さく喉を鳴らした。
そしてその夜、優香は本当に私を家まで連れて行ってくれた。家の裏手にある古びた物置に、ふかふかのクッションと毛布、私のための水と餌の器が並べられていた。そこは小さな空間だったけれど、優香のやさしさが詰まった、世界で一番あたたかい場所だった。
それが、私たちの「ひみつの暮らし」の始まりだった。
夜になると彼女は、こっそり会いに来てくれた。
「ニーナ、寒くない? ほら、今日は新しい毛布持ってきたよ」
「今日ね、体育で転んじゃってさ、ひざ、ちょっとすりむいたの。……でも、ニーナに会えたからもう大丈夫」
そんな何気ない言葉のやり取り。私にとって、それはかけがえのない宝物のような時間だった。優香の手からミルクの香りがして、話す声があたたかくて、私はいつしかそのぬくもりを、心の奥で待ちわびるようになっていた。
けれど——そんな穏やかな日々は長く続くことはなく、少しずつ不穏な影が差し始めていた。
ある晩、優香がやってきたとき、その腕に紫色の痣が浮かんでいるのを見つけた。いつもなら明るく微笑む彼女が、その夜はほとんど何も話さなかった。
「……ごめんね、ニーナ。今日は……あんまり話せないや」
そう言って、彼女は私の隣に座り込み、小さく震えながら私の背を撫でた。その手は、どこか悲しみに濡れていた。
次の日から、彼女が来る時間は不規則になっていった。何日も会えないこともあった。私は物置の隙間から空を見上げて、何度も風の音に耳を澄ませた。だけど、優香の足音は聞こえない。
待つことしかできない私は、その小さな空間で、優香を信じて、じっと耐えるしかなかった。あのときの私はまだ知らなかった——その沈黙の向こうで、優香の世界が、静かに崩れていっていたことを。

その夜は、ひどく風の強い晩だった。物置の屋根がみしみしと軋み、どこか遠くで風が唸るような音を立てていた。
私はいつものように、優香の訪れを待っていた。彼女がそっと扉を開け、「ただいま、ニーナ」とささやく声を。
でもその夜は違った。開いた扉の向こうに立っていたのは、優香ではなかった。
怒鳴り声が、風を裂いて響いた。
「こんなとこで何やってんだ! 誰の許可でこんなもん飼ってんだ!」
低く、濁った声。私はすぐにそれが“優香の父親”だと直感した。次の瞬間、彼の手が優香の腕を強く引っ張り、優香の身体がよろめいた。
「ごめんなさい! ニーナは、私が——私が勝手に……!」
優香は私をかばうように身を差し出して叫んだ。私は恐怖と怒りと混乱の中で立ち尽くしていた。ただの猫には、何もできない。何も守れない。
その晩、優香は無理やり家の中へと連れて行かれ、扉が乱暴に閉められた音が響いた。そして、しばらくして——泣き声が聞こえてきた。
私は動けなかった。物置の中で丸くなりながら、小さく喉を鳴らして、ただ祈るしかなかった。どうか、優香が無事でありますように、と。
その夜、私は決めたのだった。もう、これ以上、彼女を傷つけたくない。私がそばにいることで、彼女が苦しむなら——私は……
次の日の朝……夜明けの薄明かりのなかで、私はそっと物置から外へ出た。クッションの上には、私の毛が少し残っていた。それを見た優香は、きっと気づくだろう。ニーナが、自分のもとからいなくなったことを。
でも、私はそうするしかなかった。優香のために、私は身を引くことを選んだのだった。
どこかで、風に揺れる木の葉の音が、やけに大きく聞こえた。世界はまだ静かで、美しかった。だけど私の胸の奥には、ぽっかりと穴があいたまま、冷たい風が吹き抜けていた。
私はあの夜、優香の家を出たあと、何度も立ち止まり、振り返ってしまった。まだ、あの小さな物置の扉はそこにある。優香が明日の朝、「おはよう」と声をかけに来てくれる気さえしていた。
だけど——私は決めたのだ。もう、戻らないと。戻ってはいけないと。
それでも……私の心は、どうしても優香を求めてしまう。声が聞きたい。ぬくもりが恋しい。今日も、明日も、その先も、ずっと優香と一緒にいたい。でも、それが彼女を苦しめてしまうのなら——
私は、自分の心に蓋をしなければならなかった。そこで私は、ひとつの誓いを立てた。
もし、いつか——もし本当に、優香が心の底から誰かを必要とする日が来たなら、そのときは、私はもう一度、彼女の前に現れよう。そして今度こそ、彼女を支え、守り抜く。あの子がひとりじゃないと、そっと伝えるために。
でも、それまでは……この胸の奥にある優香の記憶を、すべて眠らせよう。封じよう。そうしなければ、私はまたすぐにでも彼女のもとへ走ってしまう。そして、また優香を傷つけてしまう。
私は猫。ただの猫。
そして——私は静かに目を閉じた。心の奥に、鍵をかけるように。
その瞬間から、私は“ニーナ”であることを忘れた。誰かのぬくもりを知っていたことも、誰かの声に応えた日々も。すべて、深い霧の中に閉じ込めた。
ただの、名もなき猫として。ただ風の中を彷徨いながら、ひとりで生きていく日々が始まった。
でも、きっと——いつかまた、あの名前が呼ばれる日が来る。優香が「ニーナ」と、あの声で私の名を呼ぶとき、それは、彼女が助けを求める合図。その瞬間、私は目を覚ます。どんな暗闇の中にいたとしても、必ず彼女のもとへ向かうために。
……そして、私は再び優香と出会った。それは偶然の出来事などではなかった。
私が優香を必要としていたからではなく、優香が、心の底から私を必要としていたからこその再会だったのだ。彼女は深い孤独と痛みの中で、助けを求めていた。その声に応えるように、運命はふたりを引き寄せた。
『にもかかわらず、私は気づけなかった。優香を助けてあげることができなかった…。』
私は、自分の幸せだけを見つめていたのだ。傷ついた彼女を守るべきだったのに、私が救わなければならなかったのに。それが、あの時交わした約束だったのに。
どうして気づけなかったのだろう——なぜ、その声を聞き逃してしまったのだろう——胸の奥に、悔しさと悲しみが波のように押し寄せて、私はただ静かに涙を流すしかなかった。
【最終話 予告】
すべての記憶を取り戻したニーナ。
約束を果たせなかったことを悔やみながら、ニーナは彼女と別れてからの時を、ただ静かに、生き続けてきた。その思いを胸に抱いたまま、命の終わりが近づいていた――。
ニーナの瞳に映る、最期の景色とは!?
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