ずっと待ってた猫 ~ 少女との出会いで自分の存在に気づき、最後の約束を交わす物語 ~②
その日も私は、いつものようにダンボールの中で丸くなっていた。雨上がりのアスファルトは冷たく、空気の中にはまだ湿った匂いが残っている。
足音が聞こえたのは、そのときだった。
パタパタと、どこか軽やかでリズミカルな靴音が、静かな路地裏に響いた。それはまるで風に乗って届いた音楽のようで、不思議と私の耳に心地よく届いた。いつもの私なら、そんな音にすぐさま身を硬くする。警戒し、身を潜め、気配を殺すのが私の日常だった。
『なぜだろう……?』
そのときだけは違った。警戒心に覆われた私の耳が、その足音を“危険”とは認識しなかったのだ。まるで、その音の主を本能的に知っていたかのように。それが誰なのか、そのときはまだ分からなかったけれど、どこか懐かしく、優しさを含んだ響きだった。
「……こんなところにいたんだ。ほんとに、やっと見つけた。……会えてよかった。ずっと探してたんだよ。」
その声は、ふいに降り注ぐ春の雨のように、静かでやわらかかった。制服姿の少女がそっとしゃがみこみ、私と目線を合わせる。まるで、ずっと昔から私のことを知っていたかのような穏やかな瞳だった。
少女の手が、ためらいがちに、でも確かな意志を持って私の前に差し出される。小さくて、細くて、それでいて不思議な強さを感じさせる指先だった。私は一瞬、身体に力を入れた。胸の奥に、小さく警報が鳴る。
『逃げられる。今ならまだ、間に合う』
それでも、私は動かなかった。
『……どうしてだろう。あんなに人間が怖かったのに』
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「1カ月くらい前かな。一度だけ、あなたのことを見かけたの」
少女は小さく息を吸い、ゆっくりと思い出すように話し始めた。
「その時、私は急いでいて、声もかけられなかった。でも……それからずっと気になってたんだ。あなたのこと。ここを通るたびに、今日もいるかなって探してた」
その声に、私は耳を少し傾けた。気づかないふりをしながら、心のどこかでその言葉を待っていた気がする。本当は、ずっと誰かを待っていたのかもしれない。そんな思いが、じわりと胸の奥に広がっていく。
「ずっと、ひとりだったんでしょ?なんとなくだけど、わかったんだ。あなたを見てすぐに」
少女のまなざしが、そっと私の心に触れた。そのとき、私の中で何かが小さくやわらかく崩れた。その音を、私だけが聞いていた。
やさしい問いかけに、私はただ、じっと彼女を見つめ返した。まるで、何かを試すように。あるいは、何かを待つように。夕暮れの光が街角をやわらかく染めていて、彼女の影がゆっくりと地面に伸びていた。その中にうずくまる私の小さな身体は、ほんの少し震えていたけれど、それは寒さのせいではなかった。
少女は小さく微笑みながら、ポケットに手を入れ、ごそごそと何かを探しはじめる。そして取り出したのは、白い包みにくるまれたクッキーだった。嗅いだことのない香りに、私の鼻が思わずぴくりと動いた。
『どうしてこんなものを、私に?』
そんな疑問と、わずかな戸惑いが胸をかすめた。けれどそれ以上に――その手から差し出された温もりが、ただただ嬉しかった。
私にとってクッキーは、単なる食べ物ではなかった。それはまるで「あなたを大切に思っている」という、ことばを超えた約束のように感じられたのだ。

「ねえ、君……名前、ないの?」
その言葉に、私はほんの少しだけ耳を動かす。名前…。私には、そんなものはない。誰にも呼ばれたことのない存在。誰かの“なにか”になったことのない日々。だけど、それを言葉で伝える術は私にはない。ただ黙って、彼女を見返すことしかできなかった。
少女は少しのあいだ空を見上げた。黄昏が広がる空は、やさしい橙色から紫へと滲むように変わっていく。その空の下で、彼女はほんの少し唇を動かし、つぶやくように言った。
「……じゃあ、ニーナって呼んでいい?」
『ニーナ……』
その響きは、どこか異国の風のように、耳にすうっと入ってきた。聞き慣れない音の並びだったけれど、不思議と違和感はなかった。むしろ、長い時間のなかでぽっかり空いていた心のどこかに、すとんと落ちて、静かに馴染んでいった。
それが“私の名前”になる――そんな気がした。
「ニーナ、また会いに来るから。私のこと、待っててほしいな」
その言葉は、まるで約束のように響いた。信じていいのか、疑うべきなのか、それすらわからなかった。けれど私は、その場を離れようとはしなかった。
胸の奥に、ほんのわずかに灯るあたたかい光。それはまるで、長い夜に差し込んだ、小さな夜明けのようだった。
そのとき、私は初めて、自分が“誰か”になった気がした。名前を与えられるというのは、こんなにもやさしくて、あたたかいものなのか。名前とは、呼ばれるためのものではなく、心と心をつなぐ糸のようなものなのかもしれない。
そして、ふと思った。『……この子の名前は、なんていうんだろう?』
私は小さく瞬きをして、もう一度、彼女の目をじっと見つめた。その名前を知りたいと、心から思った。それが、私にとっての“最初の願い”だったのかもしれない。
『本当に、また来てくれるのかな……』期待なんてしちゃいけない。そう思いながらも、心のどこかでその再会を願ってしまう自分がいた。
【第2話 予告】少女との出会いで変わった世界と野良猫の心
「少女の名前を知りたい」――それは、ニーナにとって初めて芽生えた、小さな願いだった。毎日、決まった時間にやってくる少女。その笑顔、差し出されるクッキー、やさしく触れる指先――そのすべてが、ニーナの心に少しずつ光を灯していく。
名前も知らない、言葉も交わせない。けれど、確かに感じるつながり。少女と過ごす日々は、これまで灰色だったニーナの世界を、まるで春の日差しのようにあたたかく塗り替えていった。
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