はっきりとは思い出せない――けれど、どこか胸の奥で確かに揺れている、断片的な記憶がある。春の光のようにかすかで、指の隙間からこぼれ落ちるような感覚。そのかけらは、ときどき目の前の優香の姿と重なり合って、不意に胸を締めつける。
もしかしたら、私は昔どこかで優香と出会っていたのかもしれない。
でも――今の私にとって、それが誰だったのか、何だったのかを突き止めることは、それほど重要ではなかった。それよりもずっと大切なのは、目の前にいる優香と過ごす、あたたかくてやさしい日々。差し出される手、そっと呼ばれる名前。優香といる毎日は、私の心を静かに満たしてくれる。
記憶のかけらはまだ胸の奥で揺れている。けれどそれは、いずれ風が教えてくれる日まで、そっと心にしまっておけばいいと思えた。

あれから二ヶ月――真夏の、肌を刺すような陽射しの中。その日は、普段にも増して暑く、空気が重く淀んでいた。
朝は、いつもと変わらない一日だった。けれど、昼を過ぎたころから、私の身体は急におかしくなった。
胸の奥がざわざわとして、熱がこもるような感覚。気づけば息が苦しく、吐き気と眩暈に襲われ、足元がふらついた。地面にうずくまると、全身の力が抜け、もう動くことさえできなかった。
路地裏の片隅、誰にも気づかれない場所で私は横たわっていた。熱いアスファルトの匂いと、陽炎のように揺れる視界。誰かに助けを求めたくても、声はかすれ、体は言うことをきかなかった。
でも、わかっていた。こんなところで、偶然誰かに見つけてもらえるなんて奇跡は起きない。――たったひとりを除いては。
『優香……』
名前を心の中でそっと呼ぶ。いつも、どんな日でも、夕方には必ず会いに来てくれる人。私がこの世界で唯一、信じることができる人。
でも……今日はまだ昼下がり。優香がここに来るまでには、まだ何時間もある。
間に合わなかったら――
不安が、じわじわと身体の中に広がっていく。でも私は祈るしかなかった。もう目を開けていることもできないまま、優香の名前だけを、何度も心の中で繰り返していた。
『優香、お願い。助けて。私は、まだあなたと一緒にいたいんだよ……』
世界が遠ざかっていく感覚。目を閉じてしまったら、もう二度と開けられないような気がして――それでも、まぶたは重く、意識は水底へ沈んでいくようだった。風の音も、空の色も、もうわからない。鼓動だけが、かすかに響いていた。
「……ニーナ?」
――幻じゃないなら、どうかもう一度、呼んで。
「ニーナ……!?」
はっきりと聞こえた。
その声に、意識がぐっと引き戻された。かすむ視界のなかに、逆光に照らされた細いシルエット。その人影が、迷いなく私のもとへ駆け寄ってくる。
「ニーナ……どうして……こんな……!」
『優香――!』
その顔が近づいた瞬間、私は確かに見た。焦りと涙がにじむ瞳、震える唇、そして私の身体に触れる手のぬくもり。
「大丈夫、大丈夫だよ……!もう平気だから……」
優香の声が震えていた。
私はもう、自分の体を動かす力も、声を出す力も残っていなかったけれど――それでも、心の中で何度も叫んだ。
『ありがとう。ありがとう。』
その瞬間、世界がふたたび、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
「ごめんね、ニーナ……すぐに病院、行こう」
震える声とともに、優香が私をしっかりと抱きかかえた。ああ、この腕の中――いつかと同じ。あたたかくて、静かで、でも今は少しだけ、焦りに満ちていた。
自転車の前カゴにタオルを敷いて、その上に私をそっと寝かせる。すぐさまペダルを踏み出す優香の足が、風のように速かった。ギシギシと軋む自転車の音と、アスファルトを切り裂くような風の音。私はもう目を開けているのもつらくて、でも時折優香が名前を呼んでくれるたびに、ほんの少しだけ意識が戻る。
「ニーナ、大丈夫? もうすぐだから、頑張って」
声が必死だった。そしてその声に、私はどこか安心していた。
信号待ちのたびに、優香はかごに手を伸ばし、私の背にそっと触れる。その指先に込められたもの――それは言葉よりもずっと多くの、想いだった。
ようやく病院に着くと、優香は自転車をその場に放り出すように止めて、私を抱えて駆け込んだ。
「すみません!この子、急にぐったりして……!息が荒くて、動かなくて……!」
受付の女性がすぐに反応し、奥から白衣の獣医師が現れる。
「すぐ診ます、こちらへ!」
診察台に運ばれていく中、私はもうほとんど意識がなかった。でも最後に、ふと感じた。私の頭をそっと撫でていた優香の指先の震えが、少しだけおさまっていたことを。私は、そっと目を閉じた。

診察台の上、白い光がまぶしくて目を開けることができなかった。体の奥が熱くて、重くて、何かがどんどん抜け落ちていくような感覚。
「呼吸が浅いですね……すぐに血液検査とレントゲンを。脱水も起こしてるかもしれません」
獣医師の落ち着いた声が、どこか遠くから聞こえてくる。誰かが私の足に針のようなものを刺す感覚があった。チクリ、とした痛みのあと、何かが身体に流れ込む。冷たい液体。点滴だろうか。それでも私は、もう反応することもできなかった。
「この子、すぐに入院が必要です。急性の熱中症の可能性があります。少しでも遅れていたら、命にかかわっていました」
優香の息をのむ音が聞こえた。
それに続く沈黙。そして小さなひとつぶの涙が、私の毛に落ちた。
私は今、診察室の奥のケージにいる。意識はぼんやりとしたまま。点滴チューブが繋がれ、狭いけれど静かな場所。そのすぐ外から、優香の声が聞こえる。
独り言のように、小さくて、でも苦しげで――
「……ごめんね、ニーナ。私、何もわかってなかった。夕方しか会えないから、きっと大丈夫だって思い込んでた。ちゃんと見てあげられてなかった。あなたが、どんなに暑くて、どんなにしんどかったかも……」
優香の声が詰まる。
「ニーナが、もし……もしこのまま目を覚まさなかったらって思うと、怖くて……ねえ、お願い。お願いだから……戻ってきて。」
私はその声に応えたかった。体を動かして、にゃあと一言でも鳴けたら、どれほど楽か。でも今は――ただ、心の中で。
『大丈夫。ちゃんと届いてるよ、優香。あなたの声、あなたの涙、あなたの願い――私は、それを抱きしめるために、生きたい。』

ゆっくりと、深く息を吸う。さっきよりも、少しだけ楽に息ができる気がした。何度も浮かんでは沈んだ意識のなかで、少しずつ世界が輪郭を取り戻していった。
最初に気づいたのは、鼻をくすぐるかすかなアルコールの匂い。それから、清潔で静かな空気と、遠くから聞こえてくる鳥のさえずり。私はまだ病院のケージの中にいた。
けれど、体の重さは少しずつ和らいでいて、もう息をするのが苦しくなかった。
数日が過ぎ――
「ニーナ、よく頑張ったね。退院、できるって!」
その声が聞こえたとき、私は本能的に目を開けた。そこには、いつもの制服姿の優香がいた。でも、どこか違って見えた。心なしか顔色が少し痩せて、でも目はいつもよりずっとやさしくて、光っていた。
「退院をしても大丈夫だけど、まだ完全に体が回復したわけじゃないんだ。この子、野良猫だって言ってたよね?この炎天下だし、身体が完全に良くなって暑さが少し和らぐまでの数日でも良いから、あなたのお家で保護できないかい?」
獣医師のやわらかな声が、静かな診察室にやさしく響いた。
ケージの中、私は息をひそめるように身を縮め、じっと優香の方を見つめていた。
優香はその視線を受け止めながら、そっと目を伏せた。肩が小さく揺れる。何かを言い出そうとして、けれどためらうように唇を結ぶ。やがて、しぼり出すような声が漏れた。
「……うちは、ダメなんです。家の事情で……」
その声は、まるで風の音にまぎれるような小ささだった。
「そっか。簡単なことじゃないよね」
獣医師は責めることなく、むしろ安心させるように微笑んだ。
「それなら……数日間だけ、うちの病院で預かることにするよ」
「すいません。ありがとうございます……その後のことは、私が毎日見てあげます。だから……できれば、保健所とかには……」
優香の声が震えていた。
獣医師はふっと息を吐いて、静かに言った。
「わかった。君がここまでこの子を想ってきたんだ。きっと、この子の未来を一番に考えられるのは――君しかいないんだろうね」
優香は小さく「はい」とだけ返し、手のひらをそっと、キャリー越しに私の背中へ添えた。その手のひらが、ほんの少しだけ震えていたのを、私は確かに感じた。
実は、これまでに何度か思ったことがあった。毎日夕方になると、変わらず会いに来てくれる優香。私を家に連れて帰って、そばで面倒を見てくれたら――どんなにうれしいだろうって。
でも、それは望んじゃいけないことだってちゃんとわかっていた。野良猫の私が、これ以上何かを求めるなんてきっと間違ってる。それに、今のままでも私は十分だったから。優香がいてくれる、それだけで私は幸せだった。
だけどあの日、獣医師に言った優香の言葉――「うちは……ダメなんです」あのとき、ほんの少し胸がざわついた。
『家の事情って……?』
そのときには、深く考えることもできなかった。ただ、その言葉の裏に、優香がひとりで抱えている、何か大きなものの気配だけが、かすかに残った。私はそれ以上を知ろうとはしなかったけれど、きっと、優香にも“帰る場所”に自由がないのだと、少しだけ分かった気がした。
【第4話 予告】
この世界は、こんなにも優しかった――。
「ニーナ、今日は一緒にお出かけできないかな?」そう言って微笑む少女・優香の手の中には、小さなキャリーケース。狭くて、知らない場所へ連れていかれる――それでも、その箱には、彼女の匂いがした。
暗い路地裏しか知らなかった私にとって、世界は怖くて冷たいものだった。でも、優香の声は春風のようにやさしくて、彼女のぬくもりは、私の胸の奥に小さな灯をともしてくれた。そしてたどり着いたのは、見たこともない景色。そこで優香がそっとつぶやいた言葉とは――
記憶の奥で、何かが静かに揺れ始める。これは偶然なのか、それとも運命なのか。
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