……あまりにも突然だった。
その日は朝から、まるで空そのものが泣いているかのような冷たい雨が、途切れることなく降り続いていた。街のすべてが色を失い、灰色のベールをまとって沈んでいくような気配。車の走る音も、人々の足音も、雨にかき消されて、世界は静かに、どこか遠くへ流されていくようだった。
重く垂れこめた雲に空は閉ざされ、風は容赦なく細い路地を吹き抜ける。木々の葉は濡れそぼり、建物の隙間からしみ出す冷気は、骨の奥まで染み込むようだった。普段から人通りの少ないこの路地裏に、今日は一人として姿を見せる者はいない。まるで街全体が深い眠りに落ち、私だけが目を覚ましたまま取り残されてしまったようだった。
私は、古びた軒下で身を丸めていた。ここは私にとって、小さな避難所。どんなに雨が降ろうと、風が強かろうと、この場所だけは私を守ってくれる――そう信じていた。だが、今日だけは違った。冷たい雨以上に、心の奥底に忍び寄るざわめきがあった。「何かがおかしい」と。
夕暮れになっても、優香は来なかった。
いつもなら、制服のすそを濡らしながらも、笑顔で私のもとへ駆けてくるのに。小さな紙袋を大事そうに抱えて、足元の水たまりにも構わず、私の名前を呼びながら近づいてくるのに。今日は、その姿がどこにもなかった。
時間だけが、じわじわと過ぎていく。空はますます暗くなり、雨脚も一層強まっていった。軒下にいても、体のあちこちが濡れて冷たくなってきた。それでも私は、動けなかった。ここを離れてしまったら、もしも優香が来たとき、会えなくなってしまう――そんな思いが、私をこの場所に縛りつけていた。
そして、夜が来た。
闇が一層深まり、あたりの音がほとんど聞こえなくなったころ――突然、路地の奥から足音が響いた。びしゃ、びしゃ、と水を踏む鈍い音。傘を差していない。濡れた地面をそのまま歩く、誰かの足音。
私は息をひそめ、耳を澄ませた。足音は、迷うことなく私のいる方へと近づいてくる。まるで、夜の闇から現れた影のように。そして――その姿が、ぼんやりと見えた。
優香だった。
びしょ濡れになった髪が頬に張りつき、唇は真っ青で、制服も泥だらけになっていた。それでも、彼女の目だけはまっすぐだった。何かを決意したように、何かを失ったように、揺れることなく私を見つめていた。

私は立ち上がろうとした。でも、体が強張って動かない。胸の奥で、何かが警鐘のように鳴っていた――これは、ただの再会ではない。
何かが、始まろうとしていた。そして同時に、何かが終わろうとしていた。
その手には、赤黒いしずくが混じっていた。指先からぽた、ぽたと垂れる液体は、雨粒とは明らかに違う色と重さを持っていた。雨に混じってアスファルトに広がっていく様子を、私はただじっと見つめていた。逃げることも、目を逸らすこともできずに――。
すぐに分かった。あれは、優香の血ではない。
彼女の身体に目立った傷はなく、動きも乱れていない。それでも、その手にべったりとこびりつく赤黒い痕跡が、何より雄弁に語っていた。それが“他人のもの”であるという事実を。誰の血なのか。なぜ、彼女の手にそんなものが付いているのか――。
その問いは、私の頭の中で何度も何度も繰り返された。けれど、答えは出ない。ただひとつ分かっているのは、これが“普通のこと”ではないということ。想像したくない。けれど、目を逸らすには、あまりにも現実が重たすぎた。
優香は、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
びしょ濡れのまま、冷たい地面に膝をつき、私の目の前で、両手で顔を覆いながら泣きじゃくった。肩が小刻みに震えている。すすり泣く声が、雨音にかき消されながらも、確かに私の耳に届く。何かを言おうとしているのに、喉が詰まり、言葉にはならない。
口を開いては閉じ、泣き声だけが残る。
それは今まで見たことのない彼女の姿だった。強くて、優しくて、どんなときも笑顔を忘れなかった彼女の、もう一つの顔。いや、きっとこれが“本当”の彼女なのだ。何か大きなものを背負い、壊れそうな心をぎりぎりで保っていた、そんな彼女の姿。
私は、そっと彼女のもとへ歩み寄り、濡れた前足で彼女の手に触れた。冷たい。けれど、どこか懐かしい温度がそこにあった。
優香は小さく、私の名前を呼んだ。
「……ニーナ……」
その声は、ひどく掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。でも、その一言に込められた想いは、雨の音にも負けず、はっきりと私に届いた。
その夜、雨は止まなかった。むしろ、静かに、重たく、空の奥からじわじわと降り続いていた。世界中が、何かを哀しんでいるようだった。まるで、優香の涙を代わりに流しているかのように。

どれくらいの時間が経ったのだろう。私たちはただ、そこにいた。何も言わず、何も問わず、ただひたすらに寄り添っていた。雨に濡れながら、暗い路地裏の片隅で、小さな体温を分け合いながら。
何かが確かに変わってしまった夜だった。そしてそれは、もう二度と、元には戻らないものだった。
やがて、優香は震える手でゆっくりとポケットに手を差し入れた。濡れた制服の生地をもたつかせながら、奥から取り出したのはスマートフォンだった。
画面はすでに水滴に濡れていて、指でスライドしようとするたびに操作は空振りした。何度も、何度も。焦りと震えが手元を狂わせ、それでも彼女は決して諦めなかった。歯を食いしばり、時折喉の奥で声にならない息を詰まらせながら、画面に指を這わせ続けた。
私はその様子を、ただ黙って見ていた。
やがて、電話の発信音がかすかに鳴り響いた。優香はスマートフォンを耳に当て、固く目を閉じる。そして、その瞬間――彼女の口からこぼれた言葉は、細く震えていた。
「……私、父親を……殺してしまったと思います。……今から……自首します……はい……」
その一言は、雨の音に混じって小さくこぼれ落ちた。
深く、冷たく、胸の奥へと沈み込んでいくような感覚。どこまでも透明で、どこまでも重たい“何か”が、そっと私の内側に広がっていく。
でも、不思議だった。私は、理解していた。ほんの少し前から、うすうす感じていた。優香が、何か大きなものを背負っていたこと。そして、それがもう限界だったこと。
本当は、誰も傷つかなくて済む方法があったのかもしれない。けれど、それが彼女には見えなかったのだとしたら。どうしても、生き延びるために、守るために、越えてはならない一線を越えてしまったのだとしたら。
私は、ただ静かに優香を見つめていた。
雨は相変わらず降り続いていた。空から落ちてくる一滴一滴が、私たちをそっと包み込むように肩を濡らし、足元を冷やし、それでも、どこか優しく感じられた。
優香は、ぼんやりとした目でスマートフォンを見つめたまま、膝の上で手を組み、その場に小さくうずくまった。
私はそのすぐそばで、彼女のぬくもりにそっと寄り添った。きっとこれが、彼女にできる唯一の正しさで、そして、私にできる唯一の支え方だった。
何も変わらないようでいて、すべてが変わってしまった夜。ただひとつ確かなことは――その瞬間から、もう後戻りはできない、ということだった。

「ニーナ……多分、これでお別れになっちゃうと思うの。ごめんね……ずっとそばにいてあげられなくて。本当に、ごめんなさい。」
優香の声は、雨の音にかき消されてしまいそうなほど細くて、震えていた。
「……私、ずっと考えてたの。もし、こうなったら……って。こんなふうに、ニーナとちゃんとお別れできないまま、いなくなっちゃうかもしれないって。でも、現実になってしまうなんて、思ってなかった……思いたくなかった……」
彼女の瞳から、また新しい涙が頬を伝って流れた。それは、止めようもない後悔と、言い尽くせない想いが詰まった涙だった。
「ニーナ。私ね、本当は、全部が怖かったの。家のことも、父のことも、将来のことも。ずっとずっと、不安でたまらなかった。でも、ニーナがいてくれたから……毎日が救われてた。あなたのぬくもりに触れるだけで、『ああ、生きててよかった』って思えたの。だから、ありがとうって言いたいの。心の底から……ありがとう」
優香は私の前に膝をつき、手を差し出して、そっと私の頭を撫でた。彼女の手は濡れて冷たかったけど、その動きには、確かなやさしさがあった。
「あなたにだけは、ちゃんと顔を上げて、お別れを言いたかったの。だから……来たの」
彼女の肩が、泣きながら小さく震えた。
「もし生まれ変わって、またあなたに会えるなら……今度は、もっとちゃんと、幸せにしてあげたい。あなたが安心して眠れる場所を作ってあげたい。……でも、今の私は、それができない」
雨は静かに、でも確実に降り続いていた。空からのしずくが、まるで彼女の心の中の涙のように、静かに世界を濡らしていく。
「私……行かなきゃ」
そう言ってから、彼女はしばらく言葉を止めた。何かを堪えるように唇をかみしめ、目を閉じてから、絞り出すように、続けた。
「『元気でいてね』とか、『頑張って』なんて、本当は言いたい。でも……そんなこと、私が言う資格なんてないんだ。あなたに守られてばかりだった私が、今さらそんな言葉を口にしたら、嘘みたいで……ごめんね……本当に、ごめんね、ニーナ……」
雨音の中で、その「ごめんね」は何度も繰り返されていた。まるで呪文のように、罪の重さを何度も抱きしめるように。そして彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
その背中は、今までに見たことのないほど小さく、でもどこか決意に満ちていた。震える足で一歩一歩、重たい足取りで歩き出す。振り返ることなく、ただまっすぐに、闇の奥へと進んでいく。
雨はなおも降り続け、彼女の姿は、路地の向こうの暗闇に、ゆっくりと滲んで消えていった。私はそこから動けなかった。ただじっと、その背中を見送ることしかできなかった。そして、心のどこかで――もう二度と、彼女が戻ってこないことを、理解していた。
【第6話 予告】
優香がもう戻らないことを、ニーナは理解していた。けれど、心はまだ――あの日のぬくもりを、手放せずにいた。
切れた首輪が、静かに告げる別れ。そして、閉ざしていた記憶が、ひとつずつ蘇り始める。
優香との過去、なぜ再び出会ったのか、彼女との約束…ニーナは全てを思い出す。クライマックスへとつながる第6話。
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