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感動の猫小説|最終話 優香とニーナの感動の別れ――命の終わりに交わすありがとう

小説『ずっと待ってた猫』
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優香と別れてから、二年の月日が流れ、季節は何度も移り変わり、街の風景も少しずつ姿を変えていった。けれど、私の中の時間だけは、あの夜を最後に止まったままだった。まるで心のどこかに深い傷が残り、そこから先へ進むことを拒んでいるかのように。

今、私は、あの日優香とよく会っていた路地裏に、ひとりぽつりと横たわっていた。

痩せ細った体は骨ばかりになり、毛並みはかつての艶を失い、ところどころ乱れている。もう何日も、ほとんど何も口にしていなかった。歩くことさえままならず、時折身体を震わせながら、目を閉じてじっと静けさに身を委ねている。冷たい地面の感触さえも、どこか遠くの出来事のようだった。

——優香、元気にしてる?

声に出すことはできなくても、胸の奥でその名前を何度も呼んだ。やさしく撫でられた感触。くすぐるような笑い声。細くしなやかな指先が、そっと頬に触れたあの瞬間。

「ごめんね、あのとき……私、もっとあなたを守れるはずだったのに」

消えかけた意識の中で、何度もつぶやいた。

悔やんでも悔やみきれない後悔は、今も心の底に重く沈んでいる。優香の悲しみも、孤独も、本当は知っていた。けれど、気づかないふりをしてしまった。そばにいたのに、見て見ぬふりをしてしまった。

——もし生まれ変われるなら、もう一度、優香のそばに行きたい。

身体はもうほとんど動かない。でも、胸の奥にだけ、まだ消えない灯火があった。その小さな炎が、今の私を支えていた。

ふと、ひとすじの風が頬を撫でた。それはまるで、どこか遠くから届いた優香の気配のようで。私は、ゆっくりとまぶたを閉じると、かすかに微笑んだ。

そして、その静かな闇の中へと、そっと身をゆだねていった——。

「さようなら、優香…ありがとう…ごめんなさい…」

しかし、その瞬間。私の耳が、かすかにぴくりと動いた。

「……ニーナ?」

風に乗って、どこかからあの声が届いた気がした。淡くて、遠くて、それでも胸の奥を震わせるほど懐かしい声。

私は、ゆっくりと目を開けた。

――そこに、優香がいた。

あの頃より少し背が伸びていて、長くなった髪が風にやさしく揺れていた。瞳の奥には涙がにじんでいるのに、彼女は静かに笑っていた。

「ごめんね、こんなに遅くなって。ずっと……ずっと、来たかったんだよ」

その声に、時が巻き戻されていく気がした。途切れたままだった時間が、ようやく再び動き出す。私は、かすかに尻尾を揺らした。もう動かないはずの体が、たしかに応えていた。

もう一度、このぬくもりに触れられるなら――この命は、きっと無駄じゃなかった。私は、立ち上がろうとした。けれど身体は動かない。それでも、心は確かに跳ねた。その瞬間だけ、時が巻き戻ったように胸があたたかくなった。

優香はそっとベンチのそばに座り、震える手でマフラーをかけてくれた。

「ニーナ、ありがとう。ずっと、わたしを待っていてくれて」

小さく喉を鳴らした。それが、精一杯の返事だった。

「ニーナ、会いたかったよ。ずっと……ずっと、会いたかったの」

優香の声は、かすかに震えていた。

「あなたに会って、どうしてもお礼を言いたかった」

その目には涙が光り、けれどその顔には、どこか安堵の色が浮かんでいた。

「あの日……私、お父さんにひどく殴られて、逃げ場もなくて……本当に怖かった。命の危険を感じて、台所にあった包丁を手に取って――」

そこで、彼女は言葉を詰まらせた。喉の奥で何かをこらえるように、小さく震えた息を吐く。

「……刺してしまう、その瞬間…ニーナ、あなたのことを思い出したの。あなたが私のそばにいてくれた日々。やさしく寄り添ってくれた、あの時間が……不思議と頭に浮かんできたの。その瞬間、私の手から力が抜けて、深く刺すことはなかった。お父さんには軽い怪我だけですんだの。あのときは気が動転してて……本当に、殺してしまったと思ってた。でも、あとから警察の人が、お父さんの無事を教えてくれたんだ。あなたの存在がなかったら、私…きっと…」

少し俯いた優香の声が、静かに続いた。

「でもね、それでも家には戻れなかった。危険だと判断されて、私は高校を卒業するまで、遠くの町の児童養護施設に入ることになったの。それからずっと、心の中にあなたがいた。何度も思った。あの路地裏に行けば、また会えるんじゃないかって。でも行けなかった。施設を出るまでは、自由に外に出ることもできなかったから」

そして、ゆっくりと顔を上げ、まっすぐ私を見つめて言った。

「やっと、やっと自由になって……今日、こうしてあなたに会いに来られたの。ニーナ……あなたがもう、いなくなっていたらどうしようって、ずっと怖かった。でも、こうしてまた会えた。それだけで、もう……十分すぎるくらい、幸せだよ」

空がゆっくりと、夕暮れ色に染まっていく。私の瞳に映る世界は、あたたかく、やわらかく、どこか懐かしい色だった。それはまるで、最初に優香と出会った日の、あの金色の光と同じだった。

優香の言葉を聞きながら、私は胸の奥がぎゅっと締めつけられるような思いだった。あの頃、私は何もできなかった。彼女の苦しみに気づきながら、ただ見守ることしかできなかった自分を、ずっと悔いていた。優香の悲しみを、痛みを、私は本当の意味で支えてあげられなかったのではないかと——。

でも今、こうして彼女が私の前で笑っている。あの頃より少し大人びた顔で、それでも変わらない優しさをたたえて。

私の存在が、ほんの一瞬でも、彼女の心を支えることができたのなら。あの苦しい夜に、私を思い出してくれたことで彼女の運命が変わったのだとしたら

——それだけで、私は救われた気がした。私は、確かにここにいてよかった。優香のために生きてきた時間が、無駄ではなかったと心から思えた。

ずっと昔、小学生だった優香と別れるとき、私は心の中で誓った。

「もう一度あの子に会えたら、今度こそ守り抜く」と。

言葉にはできないほどの喜びが、ゆっくりと胸に広がっていく。私は、静かに目を細めた。その瞳に映る彼女の笑顔が、なによりのご褒美だった。

「行こうか、ニーナ。今日から、私は一人暮らしを始めるの。でも——一人じゃないね。あなたが一緒だから」

優香がそっと手を差し伸べた。私は、その温もりを感じるように静かに目を閉じた。

優香はきっと、私の命がもう長くないことに気づいているだろう。やせ細った体も、ほとんど動かないこの姿も、彼女ならきっとすべて分かっているはずだ。

それでも優香は、一度も悲しそうな顔を見せなかった。いつものようにやさしく微笑んで、私のそばにいてくれる。

その笑顔に、どれほど救われたことか。弱りゆく私を哀れむことなく、ただ「いつも通り」でいてくれる彼女の強さとやさしさが、今の私には何よりもありがたかった。

別れのときが近いことを、お互いに言葉にすることはなかった。だけど、その静かな優しさの中に、すべてが込められていた。

そして――

優香と共に過ごした、かけがえのない数日が静かに過ぎたころ。小さなからだが、そっと力を抜いたその瞬間、私はまるで抱きとめられるように、やさしい腕の中へと還っていった。

風がふわりと揺れて、遠くで鳥が空へ舞い上がる。まだ明るさの残る空に、ひとつ、ぽつりと星が灯った。それは、誰にも気づかれないほど静かな――でもたしかな、小さな旅立ちだった。

「ニーナ……ありがとう」

優香の声が震える。その瞳には、あふれる涙が光っていた。けれどその涙の奥には、悲しみだけではない、深い感謝と、ぬくもりと、永遠の愛があった。

そして世界は、ほんの少しだけ、静かに、優しく揺れた。

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